沖縄の旅 (3)辺戸岬 [旅]
沖縄本島最北端の地、辺戸岬。
1972年に本土復帰するまでは、この場所こそが日本にいちばん近い沖縄でした。鹿児島県との境になる与論島までは約22キロ。晴れた日や視界良好な日には与論の島影を望むことができます。
岬に立つ「祖国復帰闘争碑」
戦後、海を隔てて2つの国に分かれた沖縄島と与論島。本土復帰を願う沖縄の人々はこの辺戸岬において篝火を焚き、それに呼応して与論島でも篝火をかかげたのだそうです。1964年以降は海上大会が実行され、両島から船が出航し、北緯27度線(当時の「国境線」)地点で、沖縄の本土復帰を目指して日本国旗を振り合ったという歴史があります。
本土復帰直後に建設されたこの記念碑には、少し長めの文が刻まれています。ただ、「沖縄本島最北端の場所だ~」というイメージだけでこの地を訪れた者にとっては、心が引き締まるような思いになりました。
祖国復帰闘争碑
全国のそして世界の友人に贈る。
吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。
打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。
米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。
祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。
見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。
今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。
一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。
しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、
人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
約40年の時を経て、今、この文章を読むと、沖縄の人々にとって、そして日本にとって「本土復帰」とはどういう意味を持つものだったのか、あらためて問い直されている気がします。
沖縄に吹く風はやわらかく温かいだけでなく、時に厳しく激しいものなのだ…そんなことを思った1日でした。
2011-02-15 08:13
nice!(1)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0