青函連絡船メモリアルシップ 「八甲田丸」 [旅]
青森旅の記事、もう少し続きます。
「ねぶたの家 ワ・ラッセ」の記事に、写真と文章を追加しました。すっかり浮かれている著者近影もお楽しみいただけます(笑)。
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1908年から1988年まで、北海道と本州を結ぶ重要航路であった青函連絡船。
その中でも、1964年から1988年の長きにわたり運航された「八甲田丸」は、青函連絡船の歴史が終わるその日の青森発函館行最終船としてもその任務を果たしました。
現在は青森港に係留され、「青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸」として第2の人生を歩んでいます。
かつて「海峡の女王」と称された、風格十分の威風堂々たる姿。
青森駅と青函連絡船桟橋を直結していた跨線橋(こせんきょう)。
最盛期には、青函連絡船自由席を取ろうと青森駅プラットホームから桟橋にかけて、多くの乗客があふれかえっていたと言います。また席を確保しようと駅のホームから桟橋まで駆け出す人々の姿も多く、その光景は「桟橋マラソン」と呼ばれていたそうです。
船内では、かつての青函連絡船桟橋~青森駅周辺のにぎわいを精巧な模型と人形で再現した「青函シアター」を見ることができます。
これがね、それぞれのお店にやたら細かい人物設定がされていて、ちょっと面白かったです。本当は担ぎ屋の母子を取り締まらないといけないのに、気の毒だからと葛藤するおまわりさん・・・とか(笑)。
こういった再現ものだけではなく、往時の状況がそのまま残されているエリアもあります。
グリーン席。運航されていた当時のまま残されているそうです。
ちょっと座ってみましたが、クッションがふかふかで、すごく気持ちよかったです☆
寝台席。
ベッドのところに見えるお花の形をしたものは、「飾り毛布」という青函連絡船独自の文化。ベッドに備え付けの毛布を独自の技法で折ることにより、「松竹梅」や「初日の出」などを表現したものです。
4階は航海甲板。航海の指揮を取る場所です。
ブリッジ(立っているのはお人形さんです)
無線通信室
津軽海峡は距離130キロと狭い海峡で、さらに潮の流れが急で船乗りにとっては非常に危険な海域とされていました。この場所で、たくさんの船員さんたちが約1200名の人々を無事送り届けるべく、日夜奮闘されていたのですね。
4階甲板からエレベーターで1階へ下ります。
無機質なパイプがずらりと並ぶ船内。
波に揺られて、船が桟橋にこすりつけられるように接岸し、そのたびに「ガコン・・・ガン・・・」という音が響く薄暗い甲板は、結構怖いです(涙目)。
そんな中でも、ワタシがどうしてもこの目で見てみたかったのが・・・
「車両甲板」。
もともと、青森駅と函館駅を結ぶ「鉄道連絡船」として国鉄の航路のひとつであった青函航路。このように青森駅から直接、貨車や寝台特急の車両を引きこんでそのまま連絡船で移送し、そして函館港に到着すると、函館駅の線路へと接続できるようになっていたそうです。
津軽海峡は風も強く波が荒いので、こうして頑丈に固定して運搬されていました。
海の上にも、線路があったんですね・・・!
こうして、人だけでなく、「人と物をつなぐ」電車も船に乗って海を渡っていたという事実は初めて知り、なんだかとても熱い思いがこみ上げてきて、真冬の甲板でひとりウルウルしていました(笑)。
すごいなぁ、海を越えて「つながる」線路があったなんて、本当にすごいなぁ…。
この線路は、船尾にある可動扉から青森駅の可動橋へ接続できるように設計されています。
青森駅側から見た可動橋と、八甲田丸の可動扉。
役目を終えた今は、すっかり雪に埋もれてしまっています。しかし、日本の近代化と経済発展に大きく貢献したその功績が認められ、2011年には日本機械学会より「機械遺産」にも認定されました。
地下1階は、青函連絡船の心臓部ともいえるエンジンルームです。
1600馬力の巨大なエンジン8基が、絶えずフル稼働していたそうです。
1954年の洞爺丸事故の教訓から、青函連絡船の設計には安全性を最重要視した様々な工夫と当時最新の設備が導入されました。今でも大型客船の設計や安全面の設備については、青函連絡船を手本としていることが多いそうです。
今は、海鳥たちと一緒に、波に身を任せて静かな時を過ごしている八甲田丸。
甲板でじっと耳を澄ませると、波のざわめきの向こうから、現役時代にはひっきりなしに聞こえていたであろう人々の喧騒や船員さんたちのやり取り、高く大きく鳴り響く汽笛が聞こえてきそうです。
長い間、本当に本当にお疲れさまでした。そして、ありがとう。
青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸
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